世界の最新ワインニュースと試飲レポート

MENU

  1. トップ
  2. 記事一覧
  3. ポール・ポンタリエが導き、アサイ・チルドレンが結実させた桔梗ヶ原ワイナリー(上)

ポール・ポンタリエが導き、アサイ・チルドレンが結実させた桔梗ヶ原ワイナリー(上)

  • FREE

 メルシャンは1976年、桔梗ヶ原でメルロの栽培を本格的に始めた。日本ワインの大きな転換点だった。アサイ・チルドレンが海外で培った技術を、コンサルタントのポール・ポンタリエ(シャトー・メルシャン支配人)が正しい方向に導いた。シャトー・メルシャン桔梗ヶ原ワイナリーの変遷は、日本ワインの発展をそのまま映し出している。


栽培農家にメルローへの植え替えお願い
日本ワインの大きな転換点


 1976年1月。長野・塩尻市の桔梗ヶ原地区の公民館に灯油ストーブで暖をとり、栽培講習会が開かれた。メルシャンのスタッフは畳に座った60人の農家に向かって、生食や甘味果実酒に使われてたコンコードやナイアガラから、メルローへの植え替えをお願いした。ブドウジュースや甘味果実酒の原料でもあった北米系品種は、果実酒(テーブルワイン)が普及する前の日本で、ブドウ栽培農家を支える収入源だった。


 入社1年目だったシニア・ワインメーカーの上野昇は「皆がすぐに同意してくれたわけではない。『年をとってるから』と植え替えを渋る農家さんもいた。ブドウの価格がキロ50円から200円に上がるから、収入は4倍に増える。いい話なんですと、と説得しました」と、現場の雰囲気を記憶している。


 前の年には、甘味果実酒と果実酒(テーブルワイン)の比率が逆転していた。メルシャンもラブルスカ種をいつまでも買い支えられない。”現代日本ワインの父”と呼ばれる浅井昭吾は、「世界に出せるワインを」という意識を持ち、欧州品種を栽培しなければ将来はないと考えていた。

 

 浅井は冬が厳しい桔梗ヶ原に合う品種を、親交のあった五一ワインの林幹雄に尋ねたところ、「強いて言えば、これまでの経験から、メルローしか無いと思う」というアドバイスを得た。この助言から、複数の欧州品種を植えるのではなく、メルローだけに絞ることにした。歴史の歯車がゴロリと動いた瞬間だった。


 「宿命的風土論からの脱却」を唱えた浅井の目は、世界に開かれていた。メルシャンに継承される”アサイイズム”のエッセンスを、チーフ・ワインメーカーの安蔵光弘は「日本のワイン全体を意識して、広い視野をもってコトにあたる。気候のせいにせずに、海外の銘醸地と、精神的に対等だと考えること」と表現する。


 アンセルム・セロス(シャンパーニュ)やフーコー兄弟(クロ・ルジャール)がそうであったように、産地に新たな地平を切り開いた先駆者は、挑戦精神の持ち主だが、最初から成功したわけではない。アサイ・チルドレンの1人、藤野勝久は「浅井さんにも100%の確信があったわけではなく、不安もある賭けだったと思う」と振り返る。


棚式栽培で始めてコンクール入賞まで13年
シャトー・マルゴー支配人をアドバイザーに招聘


 1976年に棚式栽培で始めたメルローが、結果を出すまでに13年もかかった。1989年、「シャトー・メルシャン 信州桔梗ヶ原メルロー 1985」がリュブリアーナ国際コンクールで大金賞を受賞し、翌年にも「1986」が再び大金賞に輝いた。国際舞台に躍り出たスタッフたちは喜び、ブドウ樹を植え替えさせた浅井も安堵した。棚式栽培で始めたメルローは、21世紀に入り、徐々に垣根式栽培に取り組む農家も現れた。


 だが、それは出発点にすぎなかった。


 今はシニア・ワインメーカーとなったアサイ・チルドレンの斎藤浩や藤野は、1980から1990年代にかけて、ボルドーのシャトー・レイソンやカリフォルニアのマーカム・ヴィンヤーズで経験を積んだ。世界クラスのワイン造りを目の当たりにし、最新の栽培・醸造技術を身につけた。1990年代初頭、キャノピー・マネージメント(樹冠管理)の重要性を理解していた日本人ワインメーカーはこの2人くらいしかいなかっただろう。

 
 それでも、日本と世界の距離が一気に縮まったわけではない。転機を呼び込んだのは、レイソンに勤務していた藤野の妻だった。現地の小学校で子供が同級生だった縁で、シャトー・マルゴー支配人のポール・ポンタリエの夫人と知り合い、交友関係が芽生えた。藤野はシャトー・マルゴーに、桔梗ヶ原メルロー1990を持参して、試飲してもらった。

 
 「醸造はよくやれている。ただ、ブドウが熟していない。栽培には工夫の余地があるね」


 そのコメントの意味を完全には理解できなかったが、「エレガンスはある」という言葉に勇気づけられた。藤野が現地にいたのは1992年から1994年。市場には1988から1990までが出ていて、ひたすら試飲していた。


 いったん帰国して、欧州事務所長で戻った1997年。ヴィネクスポで、だめもとでポンタリエに醸造アドバイザーを打診した。日本の文化や歴史に興味を持っていたポンタリエは快諾してくれた。ミシェル・ロランやドゥニ・デュブルデューらが醸造コンサルタントとして活躍し始めた時期だった。


1998年に初めて来日しアドバイス
青さと新樽の強さ指摘された桔梗ヶ原メルロー1992


 ポンタリエの初めての来日は1998年4月。城の平ヴィンヤードや桔梗ヶ原を視察した。勝沼ワイナリーで開かれた「メルシャンの新酒をきく会」で、様々なワインを試飲してもらった。当たり年の桔梗ヶ原メルロー1992に対するコメントは厳しいものだった。メトキシピラジンからくる青さ、タンニンの抽出や新樽の強さを指摘され、スタッフはショックを受けた。


 今となっては、理由は明快だ。棚栽培のメルローは葉に遮られて、日照が不十分だった。様々な契約畑がまじり選別も不十分。セニエによって凝縮度を高めていたため、ヴェジタルな香りも強まっていた。新樽100%で長く熟成していた。


 同様の問題は1980年代から1990年代前半のボルドーも抱えていた。エミール・ペイノーやジャン・リベロ・ガイヨンらがコンサルタントとして助言した。摘房(グリーン・ハーベスト)により収量を下げて、除葉や仕立てなどのキャノピー・マネージメントで、ブドウの糖度と果皮の熟度を上げた。厳しい選果でグランヴァンの質を上げた。その結果、ボルドー全体の品質は90年代に徐々に向上していった。


 ペイノーの推薦で、ポンタリエは1983年にシャトー・マルゴーに参画し、すきのない栽培と醸造で1990、1996のパーカー・ポイント100点を獲得した。メルシャンのチームが、桔梗ヶ原の抱える課題と対策の必要性に、早い時点で気づかされたのは大きな収穫だった。そこから、栽培の改善と醸造の変化に向かっていく。


2000年代に入って大きなスタイルの変化
バランスとフィネス目指す自園栽培と醸造


 ポンタリエは高圧的な物言いで、やり方を押し付けるタイプではない。手法よりも、ワイン造りの哲学を伝え、当事者に考えさせる知的な助言方法だった。斎藤は彼の言葉を記録にとどめている。


 2001年には「ブドウの熟度に応じたマセラシオン(醸し)を行うべき。過剰な抽出を行ってはいけない。力強いワインにあこがれるのは理解できるが、バランスとフィネスが重要であることを肝に命じてほしい」と語った。


 熟度を高めるための、棚から垣根栽培への転換も段階を踏んで理詰めで進めた。


 「契約栽培の限界を認識しなければいけない。実際に栽培するのは、栽培農家の人間がいいのか、よいブドウがどのようなものか知っている人間いいのか。結果は明白だろう。自社畑を持ち、納得のいくブドウを適熟期に収穫すべきだ。それなしに、さらなる品質向上を目指すのは不可能ではないか」。2004年4月にこう語った。


 斎藤は「自然は母、造り手は父という考えにたって、バランスのとれたワインを造っていきなさいということを教わりました。それをどう実践するかはチームで考えて、受け継いでいきました」と振り返る。


 醸造では、1990年代に100%だった新樽比率を下げて、多かったセニエも減らした。28-30度だった発酵温度も25度まで下げた。マセラシオンも4週間が基本だったが、年によって変えた。そこに垣根栽培による熟度の上昇も加わり、2000年代に酒質は劇的に変化した。桔梗ヶ原メルローは「フィネスとエレガンスを備えたグランヴァン」という明確な理想像に向かって突き進んだ。


 「日本のワイン造りの歴史は浅いが、洗練と調和の感覚を持っている。グランヴァンとは日本庭園のように調和のとれた存在。タンニン、アルコール、果実味、酸などすべての要素が集まって、統一され、過剰な要素がないワインを生み出せる」。ポンタリエが2004年に語ったその言葉は、チームに自信を与え、原動力となった。


教えるだけでなく学んでいる…ポンタリエ
浅井が種をまき、ポンタリエから栄養もらう

 

 その後も、主に4月に来日した。最後の来日は、「メドックのヴェルサイユ宮殿」と呼ばれた、シャトー・マルゴーの歴史的な熟成庫と醸造施設を刷新した2015年だった。2016年3月、プリムール試飲会の直前にがんで亡くなった。59歳だった。


 「同じ1956年生まれだったので身につまされる思いでした。強い人だったので、信じられませんでした……」と斎藤はしのぶ。


 ポンタリエは「私が教えているだけでなく、シャトー・メルシャンからも多くを学んでいる」とよく語ったという。1つの世界で業績を残した人物が必ず口にする言葉だ。私も何度か取材した際に「シャトー・マルゴーの偉大な畑を前に謙虚になった。自分はテロワールのしもべ」と語った慎ましい人柄を憶えている。


 浅井がまいた種から育った、世界を知るワインメーカーたちは、ボルドーのトップ醸造家から栄養をもらい、いま美しい果実をつけている。

 

 敬称略。

初来日の1998年に試飲するポール・ポンタリエ (C)安蔵光弘
左から、シニア・ワインメーカーの藤野勝久、斎藤浩、勝野泰朗・桔梗ヶ原ワイナリー長
最初に欠点を指摘された信州桔梗ヶ原メルロー1992
棚栽培のメルロー
桔梗ヶ原ワイナリーの熟成庫
五一わいんの林幹雄・代表

購読申込のご案内はこちら

会員登録(有料)されると会員様だけの記事が購読ができます。
世界の旬なワイン情報が集まっているので情報収集の時間も短縮できます!

Enjoy Wine Report!! 詳しくはこちら

TOP