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岸平典子 タケダワイナリー  因習を乗り越えワイナリー改革

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「Sommelier」(日本ソムリエ協会)2016年149号掲載

過去の遺物になってしまう不安

 日本ワインが現在のようなブームになるはるか前から、タケダワイナリーは先進的なドメーヌだった。国際品種に挑戦し、2人の後継者をフランスに留学させた。瓶内二次発酵方式の「キュベ・ヨシコ」は、2008年の洞爺湖サミットで世界のVIPに注がれた。当主の岸平典子は、日本を代表する女性醸造家だが、ただのお嬢さまではない。父親との激しい格闘の末に、現在の地位を築いた。どこの世界にもある世代対立を克服し、自分の道を切り開いたのだ。

 武田家は山形・上山市で、明治初期からブドウを栽培してきた。伝統がある。ワイン造りを本格化させたのは4代目の武田重信。ヨーロッパを視察し、1970年代にボルドー品種やシャルドネを植えた。貝の化石や有機石灰をまく土壌改良に取り組んだ。息子の伸一を80年代半ば、娘の典子を90年代初頭にフランスに送り、研修させた。メーカーの社内留学以外で、フランスで学ぶ専門家などいなかった時代だ。

 ロワールとブルゴーニュで学んだ典子が帰国したのは94年。最新の知識を反映させようと、気は焦るが、蔵の流儀には疑問だらけだった。ワインが床にこぼれても掃除しない。ハエが寄ってくると、殺虫剤で殺す。タンク洗浄もおざなり。基本の衛生管理がなっていない。おじや父の子飼いの従業員が壁として立ちはだかり、20代の娘の言い分は通らなかった。

 自社畑では年に2回、除草剤をまいていた。典子が研修したのは、91年という早い時期にビオディナミを始めたドメーヌ・ユエ。除草剤を止めようと提案したらーー
 「高温多湿の日本で、除草剤を使わずに栽培できると思っていることがおかしいと否定されました。父は(自然農法の)福岡正信の本を読んで、本人にも会いに行っていたのに……このままでは、過去のワイナリーになってしまうと焦りました」

芽吹くブドウの樹から勇気をもらう

 兄の伸一はボルドーのポンテ・カネで研修した。同じ疑問を感じていたが、おじに気を使って、飲み込んでいた。自社畑のヨーロッパ品種を使ったシャトータケダとドメイヌ・タケダ<キュベヨ・ヨシコ>を手掛ける一方で、営業部長として問屋やレストランを回っていた。今と違って日本ワインが売れない時代。苦労も多かった。
 典子が「これでは蔵の改革ができない」と愚痴をもらすと、さとされた。

 「お前もワイン売ってみれば、おれの苦労がわかる。文句言うだけで、現場でできることを全力でやっているのか」

 頼りにしていたその兄が、99年3月、急死した。朝、布団の中で冷たくなっていた。心筋梗塞。36歳の若さだった。

 「営業の苦労や蔵の中の摩擦などで、心労がたまっていたんだと思います。自分の理想とかけ離れたワインでも、売らないといけない立場でしたから」
 典子はそう見ている。

 葬式の席で、それまでに積っていた親娘の対立が顕在化した。

 「これからはおまえがシャトータケダとキュベ・ヨシコを造るんだ」
 重信の言葉に、カチンときた。 「私はスペアか?お兄ちゃんのスペアなのか。もうワインは造らない」
 本気で、家を出るつもりだった。

 でも思いとどまった。家の周りを囲むブドウ畑に引きとめられた。雪が溶け始めて、樹が芽吹いていた。ブドウを放っておけない。ワインを造るしかない。

 毎朝、窓を開けるとブドウ畑が見える。ブドウもワインも生活の一部だった、世話していたブドウから、勇気をもらった。

農家が育てたブドウを捨てるのか!

 33歳で栽培と醸造の責任者になった。もう守ってくれる人間はいない。自分の信じる道をまっしぐらに進んだ。2000年秋、父と決定的に対立する事件が起きる。ことは選果。「健全な果実が大基本」と醸造学校で学んだ典子には、当然の作業だった。

 農家が摘んだブドウの腐敗果をはじいていると、重信が飛んできた。

 「何やってんだ。そんなことに時間を使って。会社がどれだけ損するのかわかってんのか」
 典子が理由を説明すると、

 「代々一緒にやってきた農家が作ったブドウを捨てるのか。おれは認めない。社長はおれだ。明日から来なくていい」

 はじいたブドウを頭からかけられた。

 そう言われても、帰る場所はない。「明日も来ますから」と言いながら、選果したブドウで自分のタンクを仕込んだ。

 今度の喧嘩を決着させたのは、ワインだった。重信、オジ、典子がそれぞれブレンドしたサンプルを試飲した。典子のキュヴェが優れているのは明白だった。父も翌年からは口出ししなくなった。

 典子は次々と、改革を実行に移した。除草剤や化学肥料を使わず、減農薬農法に取り組んだ。選果を徹底し、野生酵母の使用を始めた。醸造管理もきちんとした。かつては、発酵期間中でも、休みの週末はルモンタージュをせず、果汁に問題が生じていた。細部を詰めることで、購入するブドウで造るタケダワイナリー・シリーズの蔵王スターの品質が底上げされた。

 「2004年には改革の区切りがつきました。子飼いの社員には頭を下げて、『お願いします。助けて欲しい』と握手を求めました。1000円だった蔵王スターの価格を1260円に上げた。栽培農家の暮らしも含めて、理想のワインを造るためには、値上げするしかありませんでした」

ワインに育てられた経営者の器

 この時点で、典子にはただの栽培・醸造責任者ではなく、ワイナリー経営者の自覚が生まれていた。しかし、立場は専務取締役。現場は任されていたが、父は代表取締役社長の座にあった。資材の購入などでつんぼ桟敷に置かれることもあった。情報を回してくれるように頼んだが、
 「おれのところに、話がくるんだから回せねえ。やはり社長だからだべな」
 典子の頭にまた血が上った。

 「それなら社長をやめてください」

 売り言葉に買い言葉。短期で、率直な性格は親子でよく似ていた。

 重信も「やめてやる」と叫んだ。事務所のだれかの取りなしを期待していたようだが、だれも助け船を出さない。2005年9月、業界初の女性の代表取締役兼醸造栽培責任者が誕生した。

 武田家と同様の物語は、ブルゴーニュの家族経営ドメーヌでもしばしば聞かされる。父は後継者に自分のやり方を押し付けたがる。ワイン造りは農民が生きてきた証しなのだから。変革を許せるのは、未来を見通す頭の柔らかい造り手だけだ。

 典子は蔵から離れて、営業で全国を回ることも増えた。伸一は20年前に和の大切さをよく話していた。そのころ聞いた教訓が、今になって胸によみがえる。若いころは、自分しか見えていなかった。それでは、人がついてこない。それがよくわかるようになった。経営者として成長した。

 「企業は人が働く場所。理念を一緒にして、生涯働き続けなければならない。一人一人がその礎なんです」
 ブドウは人を育て、ワインは人の輪をつなぐ。


タケダワイナリー社長兼醸造栽培責任者。山形・上山市生まれ。1990年フランスに留学。ロワールやブルゴーニュで研修して1994年に帰国。2005年、社長兼醸造栽培責任者に。2008年、洞爺湖サミットでドメイヌ・タケダ<キュベ・ヨシコ>が供出される。
有機栽培でカバークロップを生やしたシャルドネの自社畑で

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