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2度の苦難を乗り越えたイタリア料理の伝道師 落合務

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2019年「Sommelier」171号


「ちょっと芯が残っている」と苦情
アルデンテが理解されなかった80年代


 イタリア料理はフランス料理に大きく遅れをとっていた。


 日本に広がり始めたのは、「イタメシ」という言葉が生まれ、ティラミスが人気を集めた1980年代末からの話だ。1970年代後半までのイタリア料理は、ケチャップやパルメザンチーズを使うアメリカ経由のイタリアンだった。


 落合は現地と時差のない料理を供したパイオニアだった。82年5月、赤坂にオープンしたリストランテ「グラナータ」で料理長として腕を奮った。ナポリタンやピザをイタリアンと思ってきた日本人の反応は厳しかった。


 「このスパゲッティ、ちょっと芯が残っているよ。この前もそうだったな」


 ”アルデンテ”は理解されていなかった。


 それでも妥協はしなかった。肉も魚も丸ごと焼いて出した。パスタは注文を受けてゆで始めた。いつまでも料理が出てこないので、お客は怒って帰ってしまう。TBSに近い赤坂の一等地に構えたレストランは99席を誇った大箱だったが、8月になってもランチが15人、ディナーが10人という日が続いた。


 後輩のシェフがつぶやいた。


 「友だちがタクシーの運転手をやってるんですよ。すごく幸せそうで……もう辞めたいす」


 フレンチが主流の東京で、どうしたら客が入るのか?落合にも解決策は見つからなかった。


 プレッシャーで2度も胃潰瘍を患った。豪放磊落な性格からは考えられないが、出口の見えない不安に悩み苦しんだ。豪華な食材はまかないに消えた。


 不入りが続いて1年以上、救いの主が現れた。イタリア政府観光局の局長だったフランチェスコ・ランドゥッツィーさんがある日、来店して本場の味に喜んだ。大使館、アリタリアやフィアットなどで働く、本物のイタリアンに飢えていたイタリア人たちに口コミで広がった。イタリア人は、レストランガイドよりも友だちの評判を信じる人々だ。本物のイタリアンが徐々に浸透していった。


最初はフレンチのシェフ志望
人生を変えた桂洋二郎との出会い


 落合は最初から、イタリアンを目指していたわけではない。中学生で、近所の中華料理屋の親父さんが炒飯を作る手際の良さに魅了され、高校を中退して、料理の道に進んだ。目標はフレンチのシェフ。ホテル・ニューオータニで働き、現地で本格的に修行したいという思いが強まった。


 赤坂で日本料理店「ざくろ」とコンチネンタルレストラン「トップス」を経営していた実業家桂洋二郎さんの下で、働く機会を得た。人生が変わる出会いだった。


 28歳でトップスの副料理長を務めていた時、「やはりフランスで修行したいから辞めたい」と申し出た。「お礼はするから」と引き止められた。それが、1か月半のフランス研修旅行だった。


 会社のお金で、トゥール・ダルジャン、タイユヴァン、ポール・ボキューズなど名店を食べ歩いた。食材、盛り付け、サービス……フレンチの頂点を体験して、フランスで修行する夢をふくらませた。


 乗り継ぎの都合で、イタリアに数日間、滞在した。ただ焼いただけ、揚げただけの料理に思えた。サービスも洗練されていない。フランスにもっといればよかった、と後悔した。


太っ腹なオーナーの下
イタリアで2年間の武者修行


 帰国後、桂にきかれた。


 「どうだ、イタリアはよかっただろう。どこがよかった?」


 うれしそうなオーナーを前に、フレンチの方が良かったとは言えない。


 「素材をいかして、基本に忠実な調理が……」とお茶をにごした。


 その反応に気をよくしたのか、今度は「イタリアに好きなだけ行って来い」と言われた。イタリアンで勝負しようという思惑があったのだろう。

 2年間の修行中に、シチリア、ナポリ、フィレンツェ、ボローニャ、ヴェネツィアなど各地を回った。いつしか、毎日食べても飽きないイタリア料理の魅力にひかれていった。


 自分の経験を踏まえた改良点も加えたレシピのノートが大量にたまった。給与は日本に残した家族の生活費にあて、渡航費から現地の生活費まで会社が払ってくれた。桂は太っ腹のオーナーだった。


 落合は毎月、レポートと経費の領収書を手紙で送った。点々と変わる自分の住所は書かない一方通行だった。さすがに桂も怒って、幹部役員とともに現地に乗り込んできた。


 「おまえ、いい加減にしろよ」


 81年3月、帰国して、グラナータ立ち上げの準備が始まった。


 グラナータは街場のフレンチより高めの価格設定だったが、サバティーニなどと並んで本物のイタリア料理を日本に伝えた。ルッコラやバジルはもちろん、オリーブオイルやトマト缶の種類も少なかった時代に、市場に通って、栽培から始めたハーブもあった。


 カジュアルなイタリア料理が「イタメシ」と呼ばれてもてはやされるほどポピュラーな存在になるブームの地ならしをした。


 落合も役員となり、組織の階段を登っていったが、再び苦難に見舞われる。94年、桂さんが64歳で急死したのだ。葬儀では号泣した。泣こうと思わないのに涙が出てきて止まらない。両親を失ったよりも悲しかった。


 「グラナータは桂さんが信念をまげなかったから、イタリア人が来てくれて、生き延びることができた。『はやって、よかったじゃないか』と言われて、彼が喜んでくれる顔を見るのが励みだった。どうなるのかわからないイタリア料理で、彼の恩に報いるのが生きがいだったから、いなくなって気が抜けた」


オーナーの死で人生リセット
原点に戻った定食屋を開業


 三回忌を終えた97年、落合は成功した高級リストランテを辞めた。


 3品で3800円の食堂「ラ・ベットラ・ダ・オチアイ」を銀座の外れ一丁目にオープンした。グラナータと同じ食材は使えないが、同じ技術は使える。退職金と母から借りた800万円を開店資金にあてた。人生のリセットである。


 私も何度か訪れた。料理のコストパフォーマンスもさることながら、ワインの価格が魅力的だった。オルネッライア1998を8000円前後で飲んだのを覚えている。ワインは開けるだけだからお金はとれないという考えだという。


 東京で、カジュアルな店も含めたイタリア系レストランは、フランス系よりはるかに多い。落合がテレビに出演したり、各地でセミナーをしたりする人気も手伝って、ラ・ベットラ・ダ・オチアイは東京で最も予約がとりにくいイタリアンの一つになった。テナントへの出店や新店の開店などの引き合いは山ほどきたが、すべて断った。簡単にいくわけがないと、自分を引き締めている。


 大勢の弟子を輩出してきた。北海道から沖縄まで、各県に1人は育てた料理人がいるという。イタリア料理の苗床である。若い頃はキレることもあったが、今は人を育てる立場に回っている。


 そこにも桂さんの教えがある。


 「大声だすのはかまわない。でも、だれもが自分と同じと思ってはだめだ。おれができるのに、なぜおまえはできない。そういうふうに考えてはいけない。できないやつはいるんだから」


 桂さんからは料理人としての基礎はもちろん、飲食店経営や人材教育まで教わった。人生の師匠を持てたのは幸せなことだった。


 現在は日本イタリア料理協会の会長として、イタリア料理の普及に務めている。若いシェフたちに酔ってからまれることもあるが、それも嫌いではない。落合がかつて噛み付いたり、甘えたりした桂さんが思い描いたイタリアンを、自分なりに引き継いでいる。


プロファイル

ラ・ベットラ・ダ・オチアイ オーナーシェフ

1947年東京都出身。赤坂の「グラナータ」料理長を経て、97年に「ラ・ベットラ・ダ・オチアイ」を設立した。日本イタリア料理協会会長
 

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