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グランヴァン極めたトップソムリエ黒田敬介(上)

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 日本のイタリア料理レストラン、いやソムリエ業界にあって、ベストなソムリエの1人が黒田敬介である。コンクール歴は重要ではない。フィレンツェで、エノテカ・ピンキオーリのジョルジョ・ピンキオーリから直々に学んだ彼は、卓越した記憶力に基づいて、極上のグランヴァンを最良のサービスで提供する。銀座のレストラン「クロディーノ」のオーナー・ソムリエの半生を掘り起こして、その本質に迫る。


 優れた料理人の調理と同じく、黒田も本場でソムリエの技術を身に着けた。1985年に入社したパレスホテルから、シェラトン・グランデ・東京ベイホテルを経て、1989年に三越ローマ支店の「レストラン・ローマ三越」で働く機会を得た。


イタリアワイン評論黎明期に現地で修行


 ガンベロ・ロッソがワインガイドを発刊し、イタリアにワイン評論が確立されつつあった時期だった。ワインスクールなどない。ジャーナリストたちと一緒に試飲するうちに、フィレンツェのエノテカ・ピンキオーリから声をかけられる幸運をつかんだ。1991年に働き始めた。

 

 1983年に2つ星、1993年から3つ星となり、いったん星を落としたが、2004年に返り咲いた。世界に誇れるワインリストをジョルジョ・ピンキオーリがそろえ、メディチ家から伝わる料理を妻のアニー・フィオルデが調理する。トスカーナの華ともいうべき名門だ。


 「日本はバブルの時代でした。ジョルジョには、日本で開店したいという思いがあったのでしょう。名声は響いていた。帰国する時に、ピンキオーリの段ボール箱を抱えていると、空港で『どんなワインを買ったんだ』と囲まれたほどです」


 銘醸ワインのそろう”戦場”で鍛えられた。ソムリエを含む40-50人のスタッフが立ち働く。意気盛んな20代前半。現地スタッフに負けられないと気を張った。初めてサーブしたグランヴァンが、ローマから訪れたランチ客向けのシャトー・ディケム1921だった。


 ローマでは手に入らないバローロ・ボーイズの1985が毎日、グラスで開いていた。コシュ・デュリやアンリ・ジャイエ、ボルドーのグランヴァンも飲まれる。「何なんだこの店は」と思っていると、「ワイン・スペクテイターのベスト100をすべて覚えてこい」という宿題が出された。


サービス時にブラインドテイスティング


 ディナーの時間は、サービス自体が勉強の場だった。5種類のグラスワインをブラインドで試飲してコメントする。世界の有名ワインが出る。わかっていても、だれも教えてくれない。ピンキオーリの前でコメントするのはしんどかった。メモなどできない。すべてを頭にたたきこんだ。最も重要なのは記憶力だった。


 これまでのキャリアで「最も記憶に残るワイン」をたずねると、すぐに大量のワイン名をヴィンテージとともに挙げてくれた。


 クリュッグのクロ・デュ・メニル1982、コシュ・デュリのコルトン・シャルルマーニュ1986、ルフレーヴのモンラッシェ1992、ルロワのミュジニー1996、スクリーミング・イーグル1997、マーカッサン1996、オー・ブリオン1989、ル・パン1982、カーゼ・バッセのブルネッロ・ディ・モンタルチーノ1990、サッシカイア1985、ロマネ・コンティ1937……。


 これでも30本近いワインのほんの一握りにすぎない。最も多く注いだのはガヤのバルバレスコかソライア。1000本以上、抜栓した。DRCやアンリ・ジャイエも負けないくらいたくさん開けた。


記憶力がソムリエの最も重要な能力


 その場でいくつかのワインをコメントしてもらった。その記憶力は驚くほどだ。


 アンリ・ジャイエのリシュブール1985「25年前に試飲しました。パワフルで骨格がしっかりしていた。華やかで果実の甘みがある。もっとシルキーになっているでしょう。もう飲み頃だが、まだまだ熟成するでしょう」


 シュヴァル・ブラン1947「最も良かったヴィンテージ。25年前でレンガ色になっていた。日照の恵まれたおかげで、甘みが強く、ブルゴーニュと間違えてしまいそうでした。余韻は長く、25年たってもまだまだ保っているでしょう」


 ソライア1978「最後に飲んだのは15年前。1978年のトスカーナは良いヴィンテージだったので、骨格がしっかり残っていた。デビュー年の1978はカベルネ・ソーヴィニヨンとカベルネ・フランのブレンドで、サンジョヴェーゼは含まれていない。シルキーでアフターが長く、ジャムのような余韻を感じました」


 間違いなくジャイエやDRC、ペトリュス、ソルデラらのグランヴァンを最も多く抜栓した日本人ソムリエだろう。これだけの経験を積んで、ワインの鮮明な記憶を持ち合わせるソムリエは国内に1人もいない。


 「年に4、5回は、試飲して鳥肌が立つような経験をしました。きた、きたっていう感じで。その回数が最も多かったのがジャイエでしょうか。1981のようなオフヴィンテージでも素晴らしかった」


1970年代からブルゴーニュに通ったピンキオーリ


 フィレンツェ市内のレストランと、歩いて15分のポンテベッキオ近くのアパートを往復する日々を送り、時間があればワインの勉強をしていた。朝9時から昼の3時まで。夜は7時から3時ごろまで。パソコンなどない時代。帰宅したら、本を開いて確認して、ワインリストを頭の中にたたきこんだ。


 ワインリストが素晴らしかったのは、ピンキオーリの試飲能力が素晴らしかったから。それに尽きる。ルイジ・ヴェロネリと親しく、ブルゴーニュの最新情報を聞いていた。1970年代から、ジャイエやコシュ・デュリらトップドメーヌに通っていた。現地では「毎年、買いつけに来るイタリア人」として知られていた。造り手は古い顧客を大切にする。


 ロバート・パーカーがブルゴーニュを世界に広める前の話だ。ドメーヌだけでなく、ヴィンテージの品質も見抜いていた。ルフレーヴやコント・ラフォンから、ピンキオーリ向けラベルを貼ったワインを売ってもらえた。ヴァランドロー1992にいたっては、フランス人から売ってくれと頼まれたほどだ。ジャイエやルフレーヴも訪れるレストランとなった。

 

黒田敬介 1966年生まれ。1989年にイタリアに渡り、1991年からエノテカ・ピンキオーリ・フィレンツェのオーナー、ジョルジョ・ピンキオーリに師事。1992年に開店したエノテカ・ピンキオーリ東京で、2010年の閉店までシェフソムリエとして活躍。2011年6月、「リストランテ クロディーノ」(東京・銀座)を開店。2009年から「ASSOCIAZIONE  DELLA  SOMMELLERIE  PROFESSIONALE  ITALIANA」 (ASPI)の会員。
 

(敬称略)

 

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