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日本にブルゴーニュを広めたサムライ 坂口功一

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「安心して仕事を任せられる」

 DRCのオベール・ド・ヴィレーヌ

 ヴォーヌ・ロマネ村の中心にあるドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティ。ワイン界の頂点に立つ”ザ・ドメーヌ”で、共同経営者のオベール・ド・ヴィレーヌは、坂口功一を前に、私に語った。


 「ムッシュー・サカグチとは物事の本質をダイレクトに話し合える。輸入業者の立場だけでなく、我々生産者の立場もわかってくれる。真ん中に立って、働いてくれるから、安心して仕事を任せられます」


 坂口はオベールが所有するブーズロンのドメーヌ・ド・ヴィレーヌのエージェントを務める。日本では生産者にばかり光が当たるが、生産者と消費者をつなぐ「ミドルマン」の存在は重要だ。エージェントは自己資金で造り手からワインを購入し、日本のインポーターに向けて輸出する。双方をたてないと関係は長続きしない。


 「ムッシュー・サカグチは本物のサムライだ」ブルゴーニュの”顔”は言う。


 日本は量も金額も、ブルゴーニュの3番目の輸出市場だ。ルフレーヴもルソーもルーミエも普通に購入できる。世界的に見ると、これは稀有な状況である。坂口が30年以上にわたり、造り手を紹介してきたおかげだ。日本に入ってくるブルゴーニュの10本に1本は坂口が仲介している。


 最初からワイン業界で働いていたわけではない。転機は40歳で訪れた。伊藤忠のパリ駐在員を7年間も務めていたが、転勤を打診された。日本の高度成長を担った大手商社の”戦士”として働いてきたものの、家庭より会社を優先させる暮らしに、違和感をため込んでいた時期だった。語学留学をしていた1968年、五月革命を体験しており、フランスの自由さを知っていた。


 「体にぴったりと合う服を来ていない。そんな違和感が募り、会社を辞めてフランスに残ろうと、妻と話し合いました」


伊藤忠を40歳で退職
パリで起業しワインのエージェントに


 85年、15年間務めた会社を退職し、貿易会社「ソシエテ・サカグチ」を興した。長男は12歳、長女は9歳だった。起業の元手は退職金と貯金のみ。明確な青写真はなかった。面白そうな商品が見つかるたびに、日本の商社に手紙を送った。数百通送った手紙に2通の返事が来た。手応えがあった1通が中島董商店だった。


 「案内いただいた食品に興味はありませんが、ヨーロッパとは取り引きしています。何かの形でお世話になるかもしれません。その節はよろしくお願いします」


 中島雄一会長が自ら開封して、担当者に返事するよう指示したものと、後から知った。埋もれて当然の手紙を読んで、返事までくれた誠意と思いやり。情に厚い坂口はその感激を忘れていない。数年後に設立されたワイン部門に、現在はルシアン・ル・モワンヌやダヴィド・デュヴァンなどを紹介して、恩義に応えている。


 坂口が試飲を教わった師匠は、伝説的クルティエのローラン・ルモワスネだった。フランス最大のワインショップチェーン「ニコラ」のバイヤーをしていた。ドメーヌの自家元詰が本格化する前、有名ドメーヌからバルクワインを買い付けていた。古酒のコレクションでも有名だ。アルマン・ルソーの前当主シャルル・ルソーに「偉大なテイスター」と評価され、多くの造り手から「隠し立てできない。最もいい樽を買い付けていく」と畏怖されていた。


 バイヤーの試飲はソムリエやジャーナリストとは異なる。基準は買うべきかどうか。ローランは口に含むとすぐに吐き出す。秒殺だった。


 「最初の一口に精神を集中することだよ。何度も飲み直すとわからなくなってしまうからね」
 コメントは短くて、ドライだった。


 ブルゴーニュの農民社会は排外的だ。義理と人情を大切にしている。坂口は約束を違えない。自慢をしない。悪口は言わない。謙虚さと誠実さで、造り手に食い込んでいく。「一緒にドメーヌを訪問すると、相手の態度が違います。若い造り手の多くがムッシューと呼ぶ。敬意を払っているのがわかります」中島董商店・大阪事務所長の鈴木諭が語る。


時代の風に背中押される
日本のワインブームの水先案内役


 85年のマルク・コランを手始めに、トップドメーヌとの取引を増やした。その集大成が、白ワインの頂点に立つルフレーヴだった。輸入商社2社は既に決まっていたが、8年間、根気よく通い続けた。93年末、アンヌ・クロード・ルフレーヴに呼ばれて、ピュリニー・モンラッシェ村に駆けつけた。2社から注文がなかったため、取引を始められた。先行していた商社は、バブルの崩壊と酒税法改正によるハードリカー値崩れの影響を受けていた。


 坂口の85年の起業から、ポートフォリオを完成させるまでの10年間は、洋酒業界の変革期と重なっている。プラザ合意を起点にした円高とバブルにより、ワインの価格が下がった。フランスのワインや料理が浸透した。そして、95年の田崎真也の”ソムリエ世界一”で、ワインブームが頂点に達した。さらに、坂口を助けたのはロバート・パーカーのガイド本「ブルゴーニュ」の出版である。92年に日本語版が出版され、愛好家が高い評価のドメーヌを熱心に探すようになった。


 時代の風が彼の背中を押した。パーカーが薦めたドメーヌの多くを坂口が輸入していた。地道に造り手と関係を築くうちに、彼のワインを受け入れる環境が整っていた。昭和から平成にかけてのワインブームの水先案内役を果たしたのが、昭和の高度成長の尖兵だった「商社」のレールから外れた坂口だったのは興味深い。勤勉な日本人の魂を備えていながら、フランスに根を生やしたグローバルな”商人”だったから、日本経済の枠組みが変わり、世界に開かれていく時代に活躍できたのだろう。


人生の相棒だった妻の喪失を克服
さらなる事業拡大に意欲


 坂口がブルゴーニュに分け入ったのは、ブルゴーニュでドメーヌ・ボトリングが本格化した時期でもあった。ブルゴーニュは70年代までネゴシアンが支配してきた。73年のオイルショックで、ワインが売れなくなり、ドメーヌがやむなく自家元詰を始めた。伝説のアンリ・ジャイエが初めて全量を元詰したのも73年だ。世代交代に伴って、80年代から90年代にかけて自家元詰が本格化した。


 その時期に、栽培や醸造も進歩した。土壌の失われた活力を復活させるため、ルフレーヴはビオディナミに転換した。多くのドメーヌが後に続いた。地価が高騰し、マイクロネゴシアンが登場した。それらを同時代で体験し、坂口はポートフォリオに反映させてきた。


 アンヌ・クロードの後を継いだルフレーヴ当主のブリス・ド・ラ・モランディエールは「ブルゴーニュのアンバサダーであり、ブルゴーニュのワイン文化を日本に伝えるマスター・トランスレーターです。30、40年前にワイン文化がほとんどなかった日本の愛好家が、ブルゴーニュワインを理解しているのは彼のおかげ」と語る。


 坂口は還暦を迎えた2004年、フランスの国家功労賞を叙勲した。ローヌの帝王マルセル・ギガルが推薦してくれた。最初は子育て、起業後は仕事で支えてくれた妻の千歌子とゆっくりしようとした矢先に、彼女の乳がんの再発が見つかる。治療もむなしく、2014年亡くなった。

 

 「2人で1つの人格を形成していた」妻の喪失は、大きなショックを与えた。しばらくは来日する余裕もなかったが、ようやく立ち直った。いつも励ましてくれた妻の思いに応えるためにも、長生きし、さらに事業を大きくしようと心に誓っている。


坂口功一(さかぐち・こういち)
1944年生まれ。「ソシエテ・サカグチ」代表。東京外国語大フランス科卒。伊藤忠を経て1985年起業。ラック・コーポレーション、AmZ、中島董商店などを通して約150の生産者を日本に紹介する。

ルモワスネのカーヴで
DRCのオベール・ド・ヴィレーヌ夫妻と自宅で
ドメーヌ・ルフレーヴ当主のブリス・ド・ラ・モランディエールと
国歌功労賞のレセプションで、妻の千歌子さん、ギガル夫妻と共に(2004年)
左から、蛯沢登茂子・元ヴィノテーク・シニアエディター、田崎真也さん、ラック・コーポレーションの桜町宣之さん、オベール・ド・ヴィレーヌさん(1998年)
1968年、留学時代のパリ・サクレクール寺院で

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